"モンタージュ、色彩、視触覚"

大島成己


最近作について
通常、大型の被写体、ビル等を撮影すると、レンズの特性により被写体の上部がすぼんでいくが、この作品の写真は、大型カメラの操作でそれを垂直に矯正し、絞りを開放の状態で撮影した。このように撮ると、写真イメージには接写写真のように焦点の合わない部分が多くなる。その写真をコンピューターでスキャンし、緑一色、採色したものを色見本として、ネガフィルムの無い状態でプリントした写真が下の帯の部分である。様々な場所から撮影された写真とこのカラー帯をアクリルマウントしている。ここでのねらいは緑色の塊としての山と緑の帯とを相互に作用させるというモンタージュにより、色彩を映像化していくことにある。映像化するとは、主体的なイメージに依らない、イメージそのものの手触り感を現出させることである。
そして、映像化した色彩を、より触覚的に作用させるために、それぞれを台形の立体の一面に貼り、壁面から突出した状態で展示した。また、イメージを5点並置することにより、実際の風景とは違う、ある全体像を惹起しようとした。山の部分を並置して、仮構の山の連なりとして見せるモンタージュにより、被写体の山との確実な距離感が更に崩れ、全体の距離感と、それぞれの部分の距離感のあいだで生じる落差により、イメージの運動性を現出させようとしたのである。

距離感について
 私達は通常、ある物を視るとき、日常的な認識のなかにその物の意味を収めていくが、そこでは物と視る主体との間の、物理的な安定した距離が必要であり、その距離を確保することで、その物と他の物との関係を追いながら、その物を認識していく。つまり視る主体がどの位置で視ているかということが、物を認識する上で求められていくこととなる。
 しかしその安定した距離感が喪失されたとき、物をその物として認識する事は難しくなる。視る主体は、そこで視点の曖昧さにより宙吊り化されて物の意味は希薄になり、イメージはたんなる色彩の強弱としての抽象的なイメージへと変容し、山であるけれども山でない、緑の塊として現前してくる。

写真の二極性
写真表現には二つのあり方があると私は考えている。一つは日常的な写真であり、何が映っているかが常に問題とされ、被写体は文化的、社会的な意味体系との関係の中で読まれていく。もう一つのあり方は、何も映っていない写真である。写真表面には光の強弱のみが印画され、そこに何の意味も見出し得ない。映像表現のゼロ度である。
私は主体的なイメージを超えるために、このゼロ度において自分の映像表現を考えてきた。主体的なイメージを超えるとは、文化的・歴史的に規定されている「私」そのものを超えることであり、ゼロ度においての表現とは非主体的な表現の極北とも考えられるものだ。
 しかしこのような表現は、ジャンルとしての「抽象写真」に回収される危険が多い。ゼロ度の極北にあると思っていても、大抵の抽象写真はすぐに日常的なありふれたイメージに回収され、「抽象」表現としてカテゴライズされてしまう。日常的な意味の体系の磁場があまりに強く、それら表現もすぐにその体系に囲まれてしまうのだ。つまり、ゼロ度に不用意に留まるということは、そのまま日常的な意味の体系に自らが回収されることを許すこととなる。ここを避けるために視覚においての触覚感を基点とした映像のモンタージュという方法を考えることとなった。

視覚においての触覚感
 ゼロ度に留まることの危険性を避けるために、私はこの二極の写真表現の中間で自分の表現を考えている。つまり日常的な意味体系に回収されにくいイメージの質を手に入れるために、具象と抽象、意味と無意味の間で振動し続ける表現の在り方を考えたいのだ。被写体は意味を持ちながらも、その意味は光の強弱の表面の上で希薄化していく。物の色彩、形象、テクスチャーを視ると言うよりも網膜で触るような感じ、視覚における触覚感が重要となってくるのである。モンタージュという方法を通して、そのイメージの触覚感が運動し始め、別の新しいイメージを現前させていくと考えている。