"映像的現象について"
大島成己
日常生活の中でふとしたきっかけで何か訳の分からない刹那的な「映像的な」現象に出会うこと事があります。何も考えていないボーとした状態で何か見ている時、視線を急に変えた時や、卓などで移動しているときの車窓からの連続した流れの風景が急に変わった時など思いもかけない現象が目の前に現れ、それを一瞬、認識できずにいる経験が誰にもあると思います。それは確固とした実体感を持っていないのに、正に追ってくるように立ち現れ、私にとっては極めて映像的なものに思えてくるのです。
例えば、電車の車窓に、建物の夜景が黒闇で点の集合体として電車の連度と共に流れていくとき、山間での自動卓の車窓に突如として迫る木々のモコモコとした緑色の塊が目に飛び込んできたとき、日射しの強い光がブラインドカーテンによって縞状に拡散されているとき、周りの風景にあまりに不釣り合いな程大きい建物が急に目の前に飛び込んできたとき、街中のショーウィンドーのガラスに映り込む風景とガラス越しのディスプレイ空問が、ただ単純にガラスを反射そして通過する光の関係として提えられるときなどなど。
しかし、それを前にしたとき、私たちは一生懸命それが何であるかを今まで記憶されたイメージを総動員し認識しようとし、例えば、それが単なる「夜景」、「山」、「カーテン」などであると分かると、最初に出会った時の現象が見せていた浮遊するような奇妙さはそこで立ち消え、私たちの日常的な風景に現象は収められていきます。つまり私たちは折角、その奇妙な現象に立ち会っているのにも関わらず、意味文脈に合うイメージだけしか見ることが出来ない私たちの眼差しのため、それを刹那的にしか経験することが出来ずにいるのです。
この映像的な現象を如何に捉え、強度を持たせて持続させることが出来るかが私の仕事となります。その仕事は写真においてこそ可能であると考えていて、なぜなら、写真が持つ本来の可能性は先述の私たちの眼差しから離れて物と対峙することができると考えるからです。しかしながら、日常的にある写真の多くは私たちの眼差しに沿って撮影され、何が写っているかを解釈することが重要になり過ぎるため、映像的な現象の刹那的な奇妙さは排除されてしまうのが現状です。私の方法は通常の認識へと現象を導かず、現象の奇妙さをそのままに提示するために写真はどう撮られるべきかにあり、つまり、認識するために必要な条件を欠く方法、あるいは逆に過剰に与える方法で、認識を上手く働かせないようにするための方法を考えています。
私の具体的な方法として認識に必要な条件の一つである遠近感を崩していくことがあります。私たちが日常的に物を見る在り方というのは、見られる対象を中心に設定し、それとの距離や他の対象物との位置関係を測るなどの遠近感、空間解釈が前提となっているので、それが崩れたときに私たちは正確に物を認識しにくくなり、映像的な現象の奇妙さが生じることとなると私は考えています。例えば、イメージの一部を暈かすことで見る者と見られる対象との距離感を不安定にしたり、レイヤーとしてイメージを扱うことで、対象が在る通常の遠近感を薄っぺらい層へと変換していったりなどで、日常的な空間解釈にズレを持ち込むことを狙っています
対象の量感、遠近感が喪失したとき、イメージは光の強弱の状態として私たちの前に現れます。私はこの認識できない奇妙さを持つ光の状態をさらに強さを持たせ、別のイメージと意味文脈に沿わない新たな関係性を取り結ぶことを考えています。つまり、そのイメージを構成する各エレメントである光、色彩、そしてイメージの触覚感が増幅する形での表現を試みているのです。それが私においての方法としてのモンタージュとなります。例えば、山を写した作品であれば、緑の光を放つ、もこもことした煙のような塊を強調するために、波であれば、様々な光を反射する表面が盛り上がってくるような感じを強調するために、夜景であれば、実は建物は存在せず、暗闇に光のグラデーションのみが浮かぶ感じを強調するために、カーテンであれば、カーテンの背後から透過する光、手前から当てられる光、カーテンに反射している光など、様々な光が交錯し、カーテンと光が同質にある或る厚みの層を強調するために。
映像の刹那的な奇妙さこそが世界の本当の有り様だと私は考えています。本当の世界の有り様とは、全てを統合する意味、価値はなく、ただ単にイメージが浮遊し、存在している状態です。しかし、私たちが住む日常的な世界はある概念の中で固定化され、どこを見渡しても既に見たことがあるというクリシェで満ちあふれ、私たちと物の関係は常に閉じたものでしかありません。刹那的な奇妙さを捉えること、そしてそれを増幅すること、これは私にとって世界との別の新たな関係の取り方なのです。
(デュッセルドルフ,2002年4月)